父の一周忌・1年経っても悲しみは癒えず忘れられないけど少しずつ…… | 【暮らしの音】kurashi-*note

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父の一周忌・1年経っても悲しみは癒えず忘れられないけど少しずつ……

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一周忌

2023(令和5)年8月14日、お盆のさなか、父が深夜の病室でひとり旅立ちました。

87歳。

あれから1年。

ようやく父のことについて書こうと思えるようになりました。

今でも父がもうこの世界にいないことを実感できず、ふらりと帰ってきそうな気がしてなりません。

ふと1階の襖を開けると、定置のソファにいつも通り父が座っていて

「おかえり~」と言ってくれる気がして。

回想:脳梗塞の介護

忘れもしない2022(令和4)年1月25日、朝食を終え、トイレから戻って椅子に座った父がいきなりバタンと倒れ、母と、当時家にいた大学4年生の長女とで救急車を呼んで病院に搬送。

下された病名は脳梗塞。

重度の麻痺が残る可能性があると伝えられ、絶望した気持ちと、それでも命が助かったことの安堵感が入り交じり、父の入院中は悶々とした日々。

ようやく約5ヵ月のリハビリ入院を経て退院しました。

右半身不随、言語障害を抱え、持病の前立腺がんのホルモン治療が中断していたせいで、癌が尿道に転移している可能性があり、おしっこが出せず、尿道カテーテルを入れた状態での退院。

介護などはじめての私たち家族。介護どころか看護が加わり、それでも父が戻ってくれたことがなにより嬉しかった。

そのときは家族みんな必死で、こんなにはやくお別れが来るとは予想だにせず。

介護なんてやったことない、介護の知識すらない、要介護って何?デイケアって?というところからひとつひとつ学んでいきました。

ド素人の私が知り得た情報を、せっかくならこれから介護が始まる方と共有できればという思いで「高齢者との暮らし」というカテゴリを立ち上げ、ぶち当たる困難をひとつずつ解決してこのブログに記しました。

介護は大変じゃないと言えば嘘になる。

仕事と並行しての介護生活は、はっきり言ってしんどいと思ったこともありました。

でも、その先に父の笑顔があり、それに励まされていた私。

例えば、汗だくで入浴介助を行ったあと、

食事を作り、一緒に食卓を囲んでいるときも父の口にスプーンを運び、食事が終わったあと、

父は必ず私に向かって「ありがとう」と一礼する。

話すことはできないけど、頭を深々と下げて一生懸命、敬意を表す。

娘にそんなことする必要ないのに、

それでも父はお礼の気持ちを都度表す。

もし、父の病気が脳梗塞だけだったら、リハビリしながら、動かなくなった右手も少しずつ動いてくれるのではないか、喋れなくても、単語くらい話せるようになるのではないか。

孫の名前を呼んだり、私の名前くらいは呼んでくれるのではないか。

最初のころは

そんな期待をしながら、介護をやっていた。

ところが、父にはその2年前に発症した前立腺がんもありました。

退院直後は元気を取り戻したように思えた父ですが、ある時苦しみ出して、

どこが痛いのか、どんな具合なのか、話せないのでわからない。

ジェスチャーでもわからない。

もどかしい、もどかしくて、わかってやれない自分が情けなくて……。

結局、尿道カテーテルが詰まり、おしっこが膀胱に溜まりすぎて苦しかったみたいで、そんなことが退院してから3回ほどありました。

夜中に救急搬送されたこともあったり、救急外来に駆け込んだこともあり。

次第に家族も疲弊し、母は腰を痛め動けなくなる事態に。

介護生活が9ヵ月に突入し、長女が就職で他県に引越しするという前日に父は再び倒れました。

回想:4ヵ月半の最期の入院

長女が3月に大学を卒業して、内定をもらった会社から広島への辞令を受け、いよいよ明日が引越しという3月末のこと。

その前日の朝、父がトイレの前で倒れていました。

朝、トイレに起きた母が発見し、そのまま救急搬送。

幸い、大したことないように見え、単なる血圧低下によって倒れたのではとのこと。

次の日から長女の引越しで私も同行するため、その間になにかあったときに母だけでは対応できないからと、短期的に入院をお願いして家路につきました。このときは軽い気持ちで。

引越しから帰ってきたら迎えに行こう。なんならしっかり療養して少し元気を取り戻してから退院でもいいかな……なんて。

家族も疲れが出始めていたころでもあったので、お互いのためにもなるかな……なんて思いも正直ありました。

もう二度とこの家に父が戻ることはないとは誰が想像したでしょう。

父はとても寂しがり屋な一面があり、私たちは同居型の二世帯住宅で7人で生活していましたが、子どもたち(父から言えば孫)が次々と独立して巣立っていく際に、誰よりも寂しがっていたのは父でした。

長男が東京に就職が決まり、引越しが決まったときは

「本当に行くのか?」と寂しそうにしており、引っ越したあとも毎晩電話をかけていたようです。

盆正月に長男が帰省するときなど、寒いのに家の前に立ってずっと長男の帰りを待ちわびているという、そんな父。

そんな父だから、長女の引越しの前日に倒れ、自分も病院に入ってしまった。まるで別れを迎えたくなかったかのように。

「たら・れば」の後悔が払拭できない日々

長女の引越しが済んで1週間くらい過ぎたころ、どうやら心臓に問題があるらしいことがわかり、ペースメーカーを入れるかどうかの凄い話になっていった。

父は前立腺がんのほか、肺気腫があり、今回の脳梗塞。

しかし心臓が悪いとは初耳。

たしかに肺気腫があって、ゼイゼイしていたけど、普通に生活ができて、元気で、洗濯担当などしてくれ、ゴミ出しなどもせっせとやってくれ、普通に元気だった。

思えば、前立腺がんの診断を受けて入院したころを境に体力がどんどん衰えていったような気がします。

高齢のため抗がん剤治療や摘出手術は行わず、ホルモン注射で状況を見ようということで治療を開始したのですが、それでもホルモン注射をした翌日は、起き上がれないことも多々あり、

「こんなに痛いのなら早くお迎えがこないかと思う」と弱気な部分を見せるようになりました。

85歳になってからの父は、数々の病気とのと闘いで、過酷な日々だったと思う。

心臓という問題を抱えつつも、

ペースメーカーを入れることで心臓が止まる心配がなくなるならと、手術に同意し、経過も順調。

あとは退院を待つばかり。

そんなときに私がコロナ発症。

父の退院話が出たときに治ったばかりだったので、大事をとってもう少し入院させて欲しいとお願いしなければ。

あのとき退院させておけば。

父は院内感染でコロナになってしまい、嚥下障害となったことで急激に体力が落ちました。

リハビリ病院へ転院になったとき、父は廃人のようにすっかり痩せこけてしまっていました。

病院側からも、延命治療はどうするかを問われ、考えておかねばならない時期に来たことを悟りました。

あのとき、私がコロナにならなければ

父を退院させておけば

なんなら、長女の引越しが終わったらすぐ退院を打診していたら……

後悔の念がぐるぐる堂々巡り。

なにをどう考えても、自分の決断がまずかったのでは……という思いに苛まれる。

周りは言ってくれる。

高齢だからね。と。

確かに87歳まで生きれたので、大往生とまではいかなくても、往生したのだろう。

父が逝った日、その日は私と長男が父の面会に行く日でした。

病院ではコロナの影響で面会規制が厳しく、1週間に1回しかできず、8月14日の14時に予約し、長男は父と面会したあと、飛行機で東京に帰る予定にしており、父と会うのを楽しみにしていました。

その深夜、大好きだった長男との再会も果たせず、天国へ旅立ってしまった父。

お盆の最中だったから、もしかしたらばあちゃんや、おじちゃんたちが迎えに来たのかな。

「もう、頑張らんでいいけん、こっちへおいで」と。

父のいない世界

父が死んでから、仮通夜、通夜、葬式、死亡手続き、四十九日法要、土地の名義変更、生命保険などなど、目まぐるしく日々が過ぎました。

四十九日法要が終わったすぐあと、安堵したのか、母が前から足が痛い、動かないと訴えていたのが本格的に動かせなくなって、立てなくなり、一気に症状が悪化し、救急搬送。

脊椎管狭窄症でした。

前々から何度訴えても、レントゲンではわからず、持病の糖尿病のせいにされていた。

ここに来てMRIを撮って初めて診断がくだりました。

そのあと約3ヵ月の入院。

きっと父がいるときは気力で踏ん張っていたのだろうな。

その糸がプツンと切れたみたいに。

母がいないなか、仏壇に毎日線香をあげ、シバの水替えをし、仏壇を掃除する。

線香を焚いている間に話しかけると、その声は故人に届いているという話なので、声を出して今日の出来事などを話してみる。

返事は来ない。

当たり前だけど……。

だけど、きっと聞いてくれている。

そんな気がする。

時々、1階からかつて介護していたときの匂いがプンと漂うときがある。

それは、紛れもなく父の匂い。

そんなとき、故人は帰って来ているのだとも言われる。

そうなってくると、カルト的な話になってしまいますが、

気持ちの問題。

父が傍で見守ってくれていると思うと

なんだかほっとするし、ノスタルジックな感情と、父と過ごした幼少のモノクロの景色が目の前に広がる。

私は独りではないのだと。

母は、正月明けに退院してきたかと思いきや、今度は3月に脳梗塞になり4ヵ月の入院。

脳梗塞で緊急搬送された翌日、重度の感染症となり一時危篤状態となったけど、まさかの回復。

きっと父が、まだこっちに来るなと言っているみたいに。

父が亡くなってからの1年、いろんなことが起こりましたが、どんなふうに書いていいのか心の整理もつかず、放置状態にしていました。

1周忌が終わり、母も普段通りの生活になり、あの頃を回想してみる余裕が少し出てきました。

父のことを考えると、突然嗚咽がとまらないくらい号泣してしまうこともありましたが、その回数がだんだん減ってきているのも事実。

恐らく家庭環境も一因しているのでしょう。

なにせ、父が亡くなったときは、母も不安定、子どもたちは巣立っていき、寂しさがダブルパンチだったのですが、ここにきて長女が退職して帰ってきたというのも、寂しさが軽減できている理由かも。

年金なしの母と、遠くで一人暮らしをしている義理母もいるので、介護について、これからも「高齢者との暮らし」をぼちぼち書いていきたいと思います。

今回は日記のようになってしまいましたが、私のブログだからこういうのもありかな。

不定期に、気ままに書いていきます。

最後までお読みいただきありがとうございました。

高齢者との暮らし

ある日突然脳梗塞で倒れた父。要介護4の認定を受け、約5ヵ月の入院を経て無事退院。

在宅で週2日デイケアに通いながらゆっくりと過ごすことにしました。

介護無知な私に降りかかる介護問題や、高齢の両親との暮らしを綴ります。

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